徳富蘇峰について

年譜

元号(西暦) 年 齢 主な事蹟 関連事項

文久3年

(1863年)
1歳 1月25日 肥後国上益城郡益城町杉堂の矢島方(母の実家)に生まれる。父の名は一敬(号は淇水。42歳)、母は久子(35歳)、蘇峰は第5子にして、長男であり、通称を猪一郎といった。父は水俣に在り、葦北郡宰附監察を勤めていた。 8月17日 天誅組、大和に挙兵する。翌日、京都政変、三条実美等七卿の参朝を止む。更に翌日 七卿等、長州に走る。
10月 横井小楠、外交問題に関し,「処時変議」を起草、幕府に建白する。

明治元年

(1868年)
6歳 12月25日 弟・健次郎(蘆花)生まれる。 3月 横井小楠、新政府の召命に応じて上京する。

明治2年

(1869年)
7歳 春、父の一敬 熊本県庁に召出され、奉行所書記を拝命する。 1月5日 横井小楠、京都寺町通角にて暗殺さる。享年60。
2月21日 柳川春三、病没する。享年三七。

明治3年

(1870年)
8歳 秋、一家を挙げて、熊本郊外・大江村(現熊本市大江町大江)に移る。元田永孚の私塾に入る。 9月10日 藩制の改革。

明治4年

(1871年)
9歳 春、元田塾が閉鎖となり、竹崎茶堂の私塾(日新堂)に入る。
秋、兼坂止水の私塾(衆星堂)に入り、薪水の労に服す。
7月14日 廃藩置県
11月12日 岩倉大使一行、横浜港を発す。

明治5年

(1872年)
10歳 父の一敬、熊本県庁七等出仕に栄進する。 9月9日 新橋・横浜間に鉄道開業。天皇、臨幸される。
11月9日 暦制改正、太陽暦の採用を決定する。

明治6年

(1873年)
11歳 熊本洋学校に入学するも、いくばくもなくして年少の故を以て退学せしめらる。
父の一敬、県令の安岡亮良と衝突して退職する。
正月10日 徴兵令が施行される。
10月24日 西郷隆盛ら征韓論の議合わず、廟堂を去り、故郷へ帰る。

明治7年

(1874年)
12歳 兼坂塾に戻る。また横井左平太(小楠の甥)の家に帰寓し、西洋の話を聞く。 2月 江藤新平ら佐賀に挙兵(佐賀の乱)。

明治8年

(1875年)
13歳 父、一敬の言に随い、再び熊本洋学校に入学する。 5月 台湾征伐。
5月7日 千島・樺太交換条約の諦結。
11月 江華島事件。

明治9年

(1876年)
14歳 1月30日 花岡山頂にて、奉教の盟を成す(熊本バンドの結成)。
8月 熊本を去って上京し、東京英語学校(一高前身)に入学する。
秋、官学の臭味意に満たず、独断にて京都の新島襄の同志社英語学校に奔る。
12月3日 新島襄に就いて受洗する。
10月24日 熊本敬神党、県庁を襲う(神風連の乱)。
10月27日 秋月の乱。
10月28日 前原一誠の挙兵(萩の乱)。11月6日、鎮定される。

明治10年

(1877年)
15歳 新聞記者たらんとの志を抱き、諸新聞を筆写する。特に福地桜痴の論説を喜ぶ。 5月26日 竹崎茶堂(蘇峰の叔父)病没。享年69。
9月 西南役平定。

明治11年

(1878年)
16歳 8月 一旦帰郷し、弟・健次郎(蘆花)を連れて新島襄に入門せしむ。 5月14日 大久保利通、紀尾井坂に暗殺せらる。享年49。
明治12年
(1879年)
17歳 この年、なお同志社に在籍するも、新島襄の紹介で、神戸『七一雑報』の編集を手伝う。 7月 米国前大統領グラント、来朝する。

明治13年

(1880年)
18歳 4月 同盟休校を煽り、5月、新島校長の慰留をも顧みず、同志社を去って東京へ上る。福地桜痴を訪ね、新聞記者たらんとして果さず、10月、帰郷する。 4月 河野広中ら、国会開設請願書を太政官に提出する。

明治14年

(1881年)
19歳 2月9日 学問の目的を、史学、文章学、経済学の三者と定める。
11月、同志と共に雑誌『開化乃手引』を発刊する。
8月 大隈重信、参議を免ぜられ野に下る。
10月 板垣退助、自由党を結成する。

明治15年

(1882年)
20歳 3月 大江義塾を開き、校長となって講学に従う。
夏、東京へ上り、板垣退助(自由党総理)に面会する。また、塾生を率いて、土佐、大阪などに出遊する。
1月4月 軍人勅諭下る。
4月6日 板垣退助、岐阜において暴漢に襲われ、重傷を負う。

明治16年

(1883年)
21歳 この年、大江義塾に在り。講学に従事する。また、各地の新聞に投書する。 4月16日 新聞紙条例改正される。

明治17年

(1884年)
22歳 1月 『明治二十三年後の政治家の資格を論ず』を著述し、同志に頒つ。
秋、夫人・静子(倉園氏、18歳)を迎える。12月、『自由・道徳及儒教主義』を印刷し、同志に頒つ。
11月23日 成島柳北、病没する。享年48。

明治18年

(1885年)
23歳 6月 『第十九世紀日本之青年及其教育』を印刷し、同志に頒つ。いくばくもなく田口鼎軒が激賞し、『東京経済雑誌』に掲載される。
9月 新体詩「愛国の歌」を作り、塾生と唱和する。
7月26日 矢島直方(蘇峰の叔父)病没。享年63。
12月22日 太政官官制を廃し、新たに内閣官制が公布される。

明治19年

(1886年)
24歳 5月 『将来之日本』を著述し、7月、原稿を携えて土佐に板垣退助を訪ね、8月、更に東京に田口鼎軒を訪うて、12月、経済雑誌社より自費出版する。俄然、文名天下を風動する。 5月1日 井上外相、各国公使と会し、条約改正会議を開く。
10月21日 英汽船ノルマントン号、紀州沖に沈没し、日本人遭難する。

明治20年

25歳 2月 民友社を創立し、雑誌『国民之友』を発刊する。
天下の識者、挙げて歓迎する。
3月 『新日本之青年』(「第十九世紀日本之青年及其教育」改題)を出版する。
4月21日 伊藤首相、鹿鳴館に大仮装舞踏会を開催する。
12月26日 保安条令を布き、在京の政客570余名を放逐する。

明治21年

(1888年)
26歳 新島襄を翼けて、同志社大学の創立に努め、募金のため奔走する。 7月5日 後藤象二郎、大同団結を唱え、東北地方に遊説する。

明治22年

(1889年)
27歳 正月 『日本国防論』を民友社より出版する。
10月 横井時雄と謀って、『小楠遺稿』を編集刊行する。
山田武甫と共に、熊本県下を遊説し、地方自治制実施に尽力する。
2月11日 憲法発布。
10月18日 大隈外相、外務省門外に於て、凶漢のため爆弾を投ぜらる。

明治23年

(1890年)
28歳 2月1日 『国民新聞』を発刊する。その社長、主筆として、昭和4年正月まで健筆を揮う。
3月3日 長男・太多雄、生まれる。
正月23日 新島襄、大磯の客舎で病没。享年48。
10月30日 教育勅語、発布さる。

明治24年

(1891年)
29歳 4月 福地桜痴に「幕府衰亡論」を執筆させ、翌年正月まで『国民之友』に連載する。
6月 国民叢書第一冊『進歩乎退歩乎』を出版する。
正月22日 元田永孚(蘇峰の旧師)病没。享年74。蘇峰は後年、その碑文を起草する。

明治25年

(1892年)
30歳 正月 総選挙を前に、山田武甫と熊本県下を遊説する。
9月 『家庭雑誌』を創刊する。
11月15日 二男・万熊、生まれる。
2月15日 第一回の衆議院議員選挙、施行される。
6月22日、西郷従道、品川弥二郎ら、国民協会を組織する。

明治26年

(1893年)
31歳 5月 国民叢書第四冊『静思余録』を出版する。
12月 『吉田松陰』(前刊本)を出版する。
2月23日 山田武甫病没する。享年61。蘇峰は後年、その碑文を起草する。

明治27年

(1894年)
32歳 9月 天皇の行幸に陪して、広島大本営に赴き、自ら特派員を指揮する。その論説と報道とは、朝野の間に重きをなす。
12月 『大日本膨脹論』を出版する。
8月1日 清国に対し戦を宣する(日清役)。
9月17日 黄海の海戦。
12月19日 横井津世子(蘇峰の叔母)病没。享年64。

明治28年

(1895年)
33歳 2月 雑誌『英文極東』を創刊する。
4月 大総督府に随行して旅順に渡る。遼東還付の報に悲憤し、5月、帰京する。
4月17日 下関条約の締結。
5月10日 三国干渉により、遼東還付の詔勅下る。

明治29年

(1896年)
34歳 3月 両親奉養のため、逗子桜山に「老竜庵」を新築する。
5月 欧米視察の途に上り、英京より、ドイツ、ポーランド、ロシア、ルーマニア等を経て、パリで越年する。
8月 露国、三国干渉の代償として、清国より満州鉄道布設権を獲得する。
9月 松方内閣成立。

明治30年

(1897年)
35歳 2月 英京にて篤疾に罹るも、5月、米国を経て、6月、帰朝する。
7月 内務省参事官(高等官二等、正五位)に任ぜられる。但し、内閣多難、策の施すべきなし。
3月29日 金本位制を公布する。
10月14日 ドイツ、膠州湾を占領する。

明治31年

(1898年)
36歳 正月 内閣総辞職し、野に下る。
9月 『国民之友』『家庭雑誌』『英文極東』の三誌を、『国民新聞』に合併の名目で廃刊する。
3月6日 ドイツ、清国を脅して、膠州湾を租借する。
3月27日 露国、清国より旅順港を租借する。

明治32年

(1899年)
37歳 5月 『勝海舟』(民友社友共著)を出版する。
同月 自宅を赤坂氷川町より青山南町(青山草堂)へ移す。
11月 『社会と人物』を出版する。
正月22日 勝海舟、病没する。享年77。
5月11日 川上操六、病没する。享年52。
11月16日 仏国、清国より広州湾を租借する。

明治33年

(1900年)
38歳 正月 『国民新聞』3,000号に達する。
7日 伊藤公、井上侯の九州下りにつき、接待のため帰郷する。
7月16日 北清事変で、わが軍、天津城を占領する。
8月14日 北京城を占領する。

明治34年

(1901年)
39歳 4月 国民叢書第十九冊『処世小訓』を出版する。
8月 北海道を漫遊し、9月、帰京する。
6月 第一次桂内閣成る。
11月17日 兼坂止水(蘇峰の旧師)病没。享年69。

明治35年

(1902年)
40歳 2月 国民叢書第廿一冊『教育小言』を出版する。
4月 伊勢大廟を拝し、松阪を経て、吉野にて観桜する。
正月30日 日英同盟締結さる。
7月18日 西郷従道、病没する。享年60。

明治36年

(1903年)
41歳 4月 『国民新聞』の4,000号を記念し、明治天皇御製、昭憲皇太后御歌集を、『千代の光』と題して刊行し、読者に頒つ。
5月 『吉田松陰』を漢訳し、上海の通雅書局、南京の明道書荘より出版する。
12月11日 奉答文事件。2日後、議会解散。
12月21日 露国政府に最後通牒を発する

明治37年

(1904年)
42歳 2月 日露開戦につき、桂首相より情報関係、言論方面の指導を托せられ、政治の枢機に参画する。
5月 国民叢書第二十五冊『第四日曜講壇』を出版する。
2月10目 露国に宣戦を布告(日露役)。
12月9日 沙河の会戦。
12月15日 藤島正健(蘇峰の従兄)病没、享年60。

明治38年

(1905年)
43歳 9月5日 日露講和条約(ポーツマス条約)に不満を抱ける暴徒は、日比谷公園に参集し、大挙して国民新聞社を襲撃する。暴徒は6日も襲来したが、新聞は休刊せず。 3月7日 竹崎順子(蘇峰の伯母。熊本女学校長)病没。享年81。
9月5日 ポーツマス条約、調印される。

明治39年

(1906年)
44歳 正月 甲府に遊ぶ。4月上旬より中旬にかけて、京阪地方を漫遊する。
5月 東京を発し、朝鮮、満州、支那を視察し、8月、帰京する。この間の消息は、11月、『七十八遊記』と題して出版する。
正月 桂内閣総辞職。
正月4日 福地桜痴、病没する。享年66。
5月18日 久保田米遷(画家。元民友社社員)病没する。享年53。

明治40年

(1907年)
45歳 6月 北陸を漫遊し、金沢、七尾、福井、敦賀を経て、7月、帰京する。永平寺では、貫主・森田悟由と清談する。 9月2日 陸羯南、病没する。享年51。

明治41年

(1908年)
46歳 4月 会津若松に遊び、飯盛山に白虎隊の遺蹟を弔う。10月、旧著『吉田松陰』を全面的に改刪し、装を改め出版する。 6月23日 国木田独歩、病没する。享年38。
7月14日 第二次桂内閣成立。
10月3日 戊申詔書、渙発さる。

明治42年

(1909年)
47歳 2月19日 四男・武雄生まれる。
9月 父一敬の88回誕生を記念し、各界名士に揮毫を乞い、「米寿帖」を製し、膝下に捧ぐ。
10月26日 伊藤博文、訪露の途に、ハルピンにて韓人に暗殺さる。享年69。

明治43年

(1910年)
48歳 正月 『元田先生進講録』を出版する。9月、朝鮮における新聞政策を建言し、『京城日報』を監督する。大正7年7月まで監督の任にあり、毎年京城に赴く。 8月22日 日韓併合条約調印。韓国を朝鮮と復名する。
11月29日 トルストイ病没する。享年82。

明治44年

(1911年)
49歳 8月 貴族院議員に勅選される。
1月、5月、9月と、三度び京城へ赴く。
3月25日 栗原武三太(国民新聞社員)病没する。享年52。

明治45年

大正元年

(1912年)
50歳 3月 信州・甲州に遊ぶ。
7月 備中倉敷に遊び、丹波・京摂を経て帰京する。
8月15日 『先帝御聖徳一班』を刊行し、全国の小学校に頒布する。
10月16日 『明治天皇仰景画録』を出版する。
2月12日 中華民国仮政府樹立、袁世凱が大総統に就任。
7月30日 明治天皇崩御。宝算61。
12月 第三次桂内閣の成立
大正2年
(1913年)
51歳 2月10日 国民新聞社、暴徒に襲撃さる。当時、桂首相に新党樹立の志あり、その懐刀として画策最も努める。
7月 平福百穂を伴ない、瀬戸内、耶馬渓などに遊ぶ。この間の紀行文『山水随縁記』は、翌年正月出版する。
11月 『政治家としての桂公』を出版する。
12月 『時務一家言』を出版する。
2月 第三次桂内閣、総辞職する。
10月10日 桂太郎、病没する。享年67。
12月23日 立憲同志会(故桂太郎提唱)結党式を挙げる。
12月27日 草野門平(国民新聞社員)病没する。享年53。

大正3年

(1914年)
52歳 4月3日 父の一敬に陪して、小金井に桜花を見る。
7月及び10月、朝鮮に赴く。
11月 京城西大門外、「愛吾盧」を引払い、旭町「南山麓舎」に移る。
5月26日 父・一敬(湛水)病没する。享年93。
7月23日 欧州大戦につき、わが国は日英同盟の誼に基づき、ドイツに戦を宣す。

大正4年

(1915年)
53歳 3月 『世界の変局』を出版、全国の図書館に寄贈する。
8月 朝鮮に赴き、京城北門外、白雲洞に居を定め、「鵲巣居」と名づける。
11月 大礼に際し、勲三等に叙せられ、瑞宝章を賜わる。
9月1日 井上馨(元老)病没する。享年81。

大正5年

(1916年)
54歳 4月 『大正政局史論』を出版する。
3月と11月 朝鮮に赴く。
11月 『大正の青年と帝国の前途』を出版する。
正月11日 高島靹之助(革丙将軍)病没する。享年73。

大正6年

(1917年)
55歳 2月 『公爵桂太郎伝』を出版する。
6月 『蘇峰詩草』を印刷し諸友に頒つ。
9月 朝鮮・満州・支那に遊び、12月、帰朝する。
12月 『杜甫と弥耳敦ミルトン』を出版する。
3月9日 露国に革命運動起る。
3月15日 山路愛山、病没する。享年54。

大正7年

(1918年)
56歳 5月 『近世日本国民史』の準備成り、「修史述懐」を発表、次いで『織田氏時代』を起稿。7月1日より、これを『国民新聞』に連載する。 9月26日 原内閣が成立する。
10月1日 大浦兼武、病没する。享年69。

大正8年

(1919年)
57歳 2月中旬 悪性の盲腸炎を発し、3月3日、築地林病院にて手術を受く。7月、再び手術を受く。
12月 『国民新聞』1万号記念事業として、国民教育奨励会を設立する。
2月11日 古谷久綱(元国民新聞記者、伊藤博文秘書)病没する。享年46。
2月18日 母・久子、長逝する。享年91。

大正9年

(1920年)
58歳 4月 伊勢大廟、畝傍御陵、桃山御陵、出雲大社に参詣し、厳島を経て帰京する。
9月 『大戦後の世界と日本』を出版する。内一部を英訳して、『日米の関係』と題し、ニューヨークのマクミラン社より出版する。
正月10日 世界平和克復の大詔渙発さる。
5月25日 シベリアのニコライエフスクで、邦人数百惨殺さる(尼港事件)。

大正10年

(1921年)
59歳 4月 朝鮮各地を周遊し、奉天に及ぶ。
10月 信・甲・駿の三州に遊ぶ。
12月 青山邸を提供して青山会館を設立する旨を『国民新聞』に発表する。
11月4日 原首相、東京駅頭にて暗殺さる。享年66。
11月25日 東宮、摂政に就任さる。

大正11年

(1922年)
60歳 4月 郷里熊本に展墓し、九州を漫遊し、5月下旬、帰京する。
8月 北海道を漫遊し、9月中旬に帰京する。
正月16日 大隈重信、病没する。享年85。
2月1日 山縣有朋、病没する。享年85。
8月17日 ワシントン条約調印。

大正12年

(1923年)
61歳 正月 『中央公論』に、「還暦を迎ふる一新聞記者の回顧」を掲載する。
5日 『近世日本国民史』既刊十冊に対し、帝国学士院より恩賜賞を与えらる。
9月1日 関東大震災のため、国民新聞社も民友社も全焼する。
9月1日 大震災にて、死傷者約20万、焼失家屋40万戸、潰屋20余万戸を生ず。

大正13年

(1924年)
62歳 2月 『政界の革新』を出版する。
4月 『精神の復興』を出版する。
晩春、大森「山王草堂」落成、一家を挙げて移る。
7月 『大和民族の醒覚』を出版する。
7月2日 松方正義(元老)病没。享年90。
9月16日 徳富万熊(蘇峰の二男)病没。享年33。

大正14年

(1925年)
63歳 2月11日 『国民小訓』を出版する。
6月 帝国学士院会員に推薦さる。
11月 『三十七八年役と外交』を出版する。
6月16日 矢島揖子(蘇峰の叔母)病没。享年91。
7月 西郷南洲先生遺墨展覧会事務所を国民新聞社内に置く。

大正15年

昭和元年
(1926年)
64歳 正月15日 宮中御進講控として、出仕仰付けらる。
4月 『中央公論』に、「頼山陽」なる長文を掲載し、11月、山陽日譜を付して『頼山陽』として出版する。
11月、『西郷南洲先生』を出版する。
12月25日 大正天皇崩御。宝算48。

昭和2年

(1927年)
65歳 2月 『昭和一新論』を出版する。
6月 木崎愛吉、光吉元次郎と共編『頼山陽書翰集』(上下巻)を出版する。
9月18日 弟・健次郎(蘆花)を伊香保に見舞うも、健次郎逝去。享年60。
10月 近畿の史蹟を尋ね、九州に到り各地を遊覧する。
2月23日 野田卯太郎(大塊。青山会館長)病没する。享年70。

昭和3年

(1928年)
66歳 4月 主婦の友社より『日本名婦伝』を出版する。
5月 『中庸の道』を出版する。
11月10日 御大礼に参加し、勲二等に叙せられ、瑞宝章を賜わる。
12月 『木戸松菊先生』を出版する。
6月4日 張作霖(支那大元帥)爆死する。享年55。
9月13日 横井時雄(蘇峰の従兄。元代議士)病没する。享年72。

昭和4年

(1929年)
67歳 正月5日 国民新聞社を退く。
2月 台湾に遊び、3月中旬に帰京、7月に『台湾遊記』を出版する。
3月 大阪毎日新聞社、東京日日新聞社に社賓として招聘される。
5月 亡父・一敬の記念に、金1万2,000円と蔵書を水俣町に寄贈し、淇水文庫(図書館)を設ける。
3月 水戸義公三百年祭に際し、水戸烈士遺墨展を青山会館に開く。
4月13日 後藤新平、病没する。享年73。
5月3日 渡辺為蔵(民友社社友)病没する。享年67。

昭和5年

(1930年)
68歳 2月11日 蘇峰会発会式を青山会館で挙げ、「維新史の骨髄」と題し講演する。
3月、6月、10月と、九州各地に遊ぶ。
9月 甲・信・越に講演旅行する。
同月 改造社より『徳富蘇峰集』(「日本文学全集」の内)を出版する。
4月23日 ロンドン軍縮条約調印さる。
11月14日 浜口首相、東京駅において暴漢に狙撃され重態に陥る。

昭和6年

(1931年)
69歳 10月 頼山陽百年祭につき広島へ赴き、広島県立一中にて、「人間山陽と史家山陽」と題して講演し、広島放送局より全国に中継放送さる。
10月29日 熊本県下の陸軍大演習にさいし、「肥後の歴史及び人物」と題して宮中にて御前講演する。
9月9日 徳富太多雄(蘇峰の長男)病没する。享年42。
9月18日 柳条溝事件(満州事変)勃発。19日、わが軍は北大営を破壊し、奉天を占領する。

昭和7年

(1932年)
70歳 3月13日 古稀記念講演会を帝国ホテルにて催す。会するもの一千余名。与謝野晶子の献歌が吹奏される。
4月 胃潰腸のため、南胃腸病院に入院加療する。
12月 改造社より『勝海舟伝』を出版する。
3月1日 満州国、独立を宣言する。
5月15日 犬養首相、暗殺さる。享年78。
12月30日 本山彦一(大阪毎日新聞社社長)病没する。享年80。

昭和8年

(1933年)
71歳 3月 民友社における『近世日本国民史』の版権を、明治書院に移す。
5月 『公爵山縣有朋伝』3巻を出版し、山縣公の命日に霊前に供える。
12月 巧芸社より『詩書百幅帖』を出版する。
3月18日 わが国、国際連盟を脱退する。
10月30日 平福百穂(画家)病没する。享年57。

昭和9年

(1934年)
72歳 4月29日 旭日重光賞を賜授される。
9月28日 『近世日本国民史』普及版の既刊五十巻刊行記念として、披露会を帝国ホテルで開催する。
2月5日 留岡幸助、病没する。享年71。蘇峰は後に墓誌銘を作る。

昭和10年

(1935年)
73歳 4月7日 満州国皇帝の招きで赤坂離宮にて帝王学を講ずる。
7月 『公爵松方正義伝』二巻を出版する。
8月 中央公論社より『蘇峰自伝』を出版する。
9月8目 床次竹二郎、病没する。享年70。蘇峰、翌年の祥月命日に、芝三緑亭にて追悼演説を試む。

昭和11年

(1936年)
74歳 正月3日 阿部充家の葬儀に参列し、霊前に弔辞を述ぶ。
11月5日 文章報国五十年祝賀会を帝国ホテルにて開催する。
12月 明治書院より『蘇翁言志録』を出版する。
正月元旦 阿部充家(元国民新聞社副社長)病没する。享年75。
2月26日 斎藤実、高橋是清など重臣が、青年将校に暗殺さる(二・二六事件)。

昭和12年

(1937年)
75歳 6月18日 文部省より帝国芸術院会員たることの依嘱を受諾する。
6月29日 日本新聞協会主催の近衛閣僚招待会に列し、席上卓談を試む。
12月 『英国を解剖す』を「毎日新聞」に連載する。
7月7日 蘆溝橋事件(支那事変)勃発する。
7月28日 小泉策太郎(三申)病没する。享年66。蘇峰、後に墓誌銘を作る。

昭和13年

(1938年)
76歳 3月 中央公論社より『我が交遊録』を出版する。
5月 水俣に帰省し、先塋に詣でる。
12月 名将遺芳の題簽を書す。
2月16日 小崎弘道(元熊本バンド)病没する。享年83。

昭和14年

(1939年)
77歳 2月 東京日日新聞社より『昭和国民読本』を出版する。
5月 50万部突破。12月、100万部突破。
6月 盛岡、仙台、袋田などに講演旅行をする。
3月28目 田中光顕(青山)病没する。享年97。
7月2日 ノモンハン事件勃発。

昭和15年

(1940年)
78歳 2月 『満州建国読本』を出版する。
4月28日 田中光顕の一周忌に臨み、多磨聖蹟内に詩碑を建てる。
9月 三国同盟締結の建白書を近衛首相に提出する。
10月13日 日比谷公会堂にて「余が見たる新島襄先生」を講演する。
3月13日 山室軍平(救世軍)病没する。享年69。蘇峰は後に墓誌銘を作る。

昭和16年

(1941年)
79歳 正月5日 「紀元二千六百一年の展望」と題して放送講演する。
3月 三叉神経痛のため南胃腸病院に入院し、5月まで加療する。
10月 『皇国日本の大道』を出版する。
11月10日 日比谷公会堂にて「太平洋を眺めて」と題し講演する。
12月10日 後楽園球場にて「興亜の暁鐘」と題して講演する。
4月13日 日ソ中立条約調印。
10月20日 東条内閣成立。
12月8日 わが国、米・英国に戦を宣す(大東亜戦争)。
12月21日 言論、出版、集会等の臨時取締令が施行さる。

昭和17年

(1942年)
80歳 2月23日 首相官邸の政治体制協議会に出席する。
5月27日 「為政格言」を起草し東条首相に贈る。
同月 日本文学報国会が設立され会長に推される。
6月 三叉神経痛に眼病再発。10月、東大附属病院に入院加療する。
11月 東久邇宮稔彦王(日本新聞協会総裁)より御沙汰書を賜る。
2月15日 シンガポール要塞陥落。
5月27日 ミッドウェー海戦。わが空母の主力、潰滅する。
11月5日 清浦奎吾(元首相)病没する。享年93。蘇峰、後に墓誌銘を作る。

昭和18年

(1943年)
81歳 2月14日 東条首相に意見書を送る。
3月6日 大日本言論報国会が発足、会長に推戴される。
4月29日 文化勲章を拝受する。
5月22日 「山本元帥の戦死を悼み国民各位に愬ふ」と題し、放送講演する。
6月 大森「山王草堂」を売却し、熱海の清浦別荘を買い、「晩晴草堂」と名づけて移る。
正月元旦、大阪毎日、東京日日、「毎日新聞」に統一する。
10月27日 中野正剛、自刃する。享年58。蘇峰、後に墓誌銘を作る。
11月27日 カイロ宣言。
12月1日 八重樫祈美子(東香。蘇峰の秘書)病没する。享年40。

昭和19年

(1944年)
82歳 2月11日 『必勝国民読本』を出版する。初版50万部を頒つ。
7月10日 サイパン失陥後の国民の覚悟につき、「重大戦局に立ちて」と題して放送講演する。
10月10日 芝増上寺の頭山満の葬儀に参列する。
11月 『蘇峰感銘録』を出版する。
6月19日 マリアナ海戦。
7月18日 東条内閣総辞職。
10月17日 米軍、レイテ島に上陸。
10月24日 レイテ沖海戦。

昭和20年

(1945年)
83歳 4月10日 「鈴木内閣の発足に望む」と題する論説を『毎日新聞』に掲載、憲法第31条の発動、天皇親政を要望する。
8月15日 山中湖畔「双宜荘」にて終戦の詔勅を聴く。
9月2日 自ら戒名を命名し、百敗院泡沫頑蘇居士とする。
12月3日 A級戦犯容疑人に指名される。
2月20日 光永星郎(電通社長。蘇峰の門人)病没する。享年80。
4月5日 小磯内閣総辞職。
6月23日 沖縄失陥。
10月21日 深井英五(元枢密顧問官。蘇峰の門人)病没する。享年75。

昭和21年

(1946年)
84歳 1月2日 米進駐軍MPが逮捕のため熱海「晩晴草堂」に来るも、老病のため自宅拘禁となる。
2月15日 家督を嫡孫・敬太郎氏に譲る。同時に貴族院議員、帝国学士院会員、芸術院会員、文化勲章など、一切の栄職、栄位を辞退する。
3月11日 「国史より観たる皇室」を起稿、同22日に脱稿する。
2月17日 預金封鎖発令。
5月22日 第一次吉田内閣成立。
10月28日 浮田和民(元熊本バンド)病没する。享年88。
11月3日 新憲法(マッカーサー憲法)を天皇裁可する。

昭和22年

(1947年)
85歳 3月2日 極東国際軍事裁判(東京裁判)法廷に、「宣誓供述書」を提出するも却下せらる。
9月9日 戦犯容疑、自宅拘禁を解かれ、21ヵ月ぶりに「晩晴草堂」の門を開く。
10月1日 「幽居の片影」を起稿し、同15日に脱稿する。
2月20日 徳富愛子(蘆花夫人)病没する。享年75。
10月14日 徳富武男(蘇峰の三男)病没する。享年39。
12月31日 塚越芳太郎(元民友社社員)病没する。享年84。

昭和23年

(1948年)
86歳 7月 宝雲舎より『敗戦学校・国史の鍵』を出版する。
8月 銀座の民友社社屋を、ローマンス社に売却する。
9月22日 『源頼朝』を起稿する。
12月7日 徳富静子(蘇峰夫人)病没する。享年82。
12月23日 東条英機以下六戦犯、絞首刑に処せらる。

昭和24年

(1949年)
87歳 3月15日 八十七誕辰祝席上、「痴人説夢」を小冊子とし会衆に頒つ。
9月16日 多磨墓碑墓誌揮毫、「待五百年後、頑蘇八十七」と墓石は大森「山王草堂」の秩父石を転用した。
11月 三叉神経痛の発作で、小沢博士(阪大)の手術を受く。
正月25日 牧野伸顕、病没する。享年89。
この年、ドッヂラインによる行政整理が断行される(官吏約26万人を削減する)。

昭和25年

(1950年)
88歳 正月6日 「英書献納記」を口述する。
3月17日 「八十余年夢物語」を脱稿する。
7月17日 米寿の記念として、歌集『残夢』を刊本とし知友に頒つ。
11月23日 熊本市内、旧百梅園(兼坂塾址)に遺髪塚が建立される。
正月12日 竹越与三郎(三叉。元民友社社員)病没する。享年86。
6月25日 朝鮮戦争勃発。

昭和26年

(1951年)
89歳 正月7日 藤谷みさを女史を、史室秘書として招致する。
2月11日 『近世日本国民史』の執筆を再開する(昭和21年10月13日以来で、今回は口述)。
12月10日 ワシントン大学マリウス・ジャンセン教授(歴史学)の来訪を受く。
4月11日 マッカーサー解任(後任はリッジウェー)。
9月8日 サンフランシスコ講和条約調印。

昭和27年

(1952年)
90歳 4月18日 米軍より公職追放解除の報に接す。
4月21日 『近世日本国民史』第百巻の稿を畢わる。
5月 熊本・水俣に帰省する(戦後はじめての、そして最後の帰省)。
9月 『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版する。
11月 熊本県近代文化功労者として表彰される。
2月28日 日米行政協定調印。
4月28日 サンフランシスコ講和条約発効。

昭和28年

(1953年)
91歳 2月、『国史より観たる皇室』を出版する。
6月5日、日比谷公会堂にて『近世日本国民史』完成記念大講演会に臨む。
11月 御殿場・青竜寺に墓碑を建てる。同月28日、同志社創立七十八周年記念式に出席し、新島襄愛用の「聖書」を寄贈する。
12月 『源頼朝』上巻を出版する。
6月21日 並木浅峰(蘇峰の秘書)病没する。享年76。
8月1日 軍人恩給の復活。
10月24日 保全経済会の休業。
この年、テレビ放送が初めて実施される。

昭和29年

(1954年)
92歳 正月、『源頼朝』中、下巻を出版する。
3月7日 「三代人物史伝」を『読売新聞』日曜版に連載開始する(101回まで続ける)。
3月27日 水俣市より名誉市民に推戴される。
12月18日 熊本市より名誉市民に推戴される。
4月21日 造船疑獄に犬養法相(吉田内閣)指揮権を発動する。
12月10日 鳩山内閣成立。

昭和30年

(1955年)
93歳 正月25日 神社本庁の依嘱で紀元節に関する録音をとる。
11月6日 二宮の蘇峰堂にて、蘇峰を囲む会に臨み講演、緒方竹虎(自由党総裁)と歓談する。
11月21日 実業之日本社の依頼で、「三宅雪嶺を語る」を録音する。
11月28日 同志社大学にて「諸葛孔明について」と題し講演、翌日も「新島襄の教育」を語る。
3月19日 第二次鳩山内閣成立。
10月14日 安藤正純(鉄腸)病没する。享年79。
11月15日 自民党結成(保守合同)。

昭和31年

(1956年)
94歳 正月22日 緒方竹虎の来訪を受く。
2月25日 NHKの依頼で、「面影を偲ぶ-国木田独歩」の録音をとる。
3月25日 誕辰会。来賀する者200余名。
6月10日 健康勝れず「三代人物史伝」の筆を折る。この頃から発熱、病床を繰りかえす。
正月28日 緒方竹虎、病没する。享年69。
4月5日 馬場恒吾(元国民新聞編集長)病没する。享年80。
12月31日 相沢熈(元蘇峰会常務)病没する。享年76。

昭和32年

(1957年)
95歳 4月1日 『西日本新聞』80周年祝刊の辞を起草する。
5月7日 正力松太郎を訪問し歓談する。
5月26日 二宮蘇峰堂の詩碑除幕式に臨み、約50分にわたり高談する。
9月18日 NHKの依頼で蘆花の思い出を放送する。
10月22日 同志社に遺訓を書く。
11月2日 10月中旬の頃より膀胱炎を病み、尿毒症を併発し、長逝する。
正月26日 重光葵、病没する。享年71。
2月23日 石橋内閣総辞職。翌日、岸内閣成立。
4月18日 渡辺世祐(歴史学者)病没する。享年83。