徳富蘇峰について

生い立ち

 本名は徳富猪一郎。文久3年(1863)肥後国上益城町(熊本県水俣市)父 徳富一敬、母 久子の長男として生まれる。弟は「不如帰」を著した徳富蘆花。元田塾、日新堂、衆星堂、熊本洋学校、東京英語学校(一校前身)を経て、新島襄が創設した同志社に学ぶ。その後郷里で大江塾を開き、門弟を育てる。
 明治19年(1886)『将来之日本』を著し、一躍文名を高める。明治20年に上京。「民友社」を創立し、雑誌『国民之友』を発刊。新進の論客、警世家として注目を集める。明治23年(1890)『国民新聞』を創刊。社長・主筆として活躍。創刊当初、第一次桂内閣擁護の立場を堅持したため、社屋を暴徒に焼き討ちされたが少しもひるまず、第3次桂内閣の憲政擁護運動にも最有力紙として、終始政敵を攻撃した。このため二度目の焼き討ちにあう。
 大正2年(1913)桂が死去したのに伴い、政界より身を引き、以後は「文章報国」一筋の境地にはいり、国民新聞も不偏不党の新聞として新しい歩みを開始した。
 これにより国民新聞は再び隆盛をきわめたが、関東大震災により壊滅的損害を蒙った。当時の鉄道王、東武鉄道の根津嘉一郎に出資を仰ぐ一方、主婦の友社の石川武見社長の経営参加を得て再建を計ったが、うまくいかず、ことに根津との意見衝突をきたすに及んで、昭和4年(1929)蘇峰はついに退社するに至った。
 国民新聞退社後、「大毎」「東日」から、社賓として迎えられ、国民新聞創刊以来、紙上に連載しつづけていた『近世日本国民史』の続稿を両紙に連載することになった。そして数多くの著書が公刊された。
 大日本言論報国会が結成されると会長に選任された。また貴族院議員に勅撰され、帝国学士院恩賜賞を受け、さらに第1回の文化勲章を受賞する。
 終戦後、戦犯指定を受け、一切の勲記要職を辞退し、悠々自適の生活に入ったが、公職追放が解除されるや、再び文筆活動に入り、『近世日本近代史』の続編を書き続け昭和27年(1952)に104巻にのぼる大著述を完成させた。その後も『蘇峰自伝』等発刊し、昭和32年(1957)、95歳の長寿を全うした。